自閉症の言語文化学-支援職による表象とASD者のオートエスノグラフィー-
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About the autistic author marker桂生, 林. (2018). 自閉症の言語文化学-支援職による表象とASD者のオートエスノグラフィー- [Dissertation]. https://doi.org/10.18910/70678
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Authors
Abstract
ASD(Autism Spectrum Disorder:自閉症スペクトラム障害/自閉スペクトラム症)は2013年5月に公表されたDSM-5(アメリカ精神医学会「精神疾患の分類と診断の手引」第5版)で新たに定義された名称だが、従来の広汎性発達障害のうち旧診断名アスペルガー症候群・高機能自閉症・特定不能の広汎性発達障害と特性がほぼ重複している。ASDについては自閉症が長い間子供しかいないと思われていた歴史的経緯からいまだその研究は児童が主に対象とされ、障害と認識されることもなく困難を抱えながら何とか生き抜いてきた現在40代、50代以上の中高年ASD 者に対しては研究も職場での支援もほとんど進んでいない。本研究はそのような勤労中高年ASD者の苦境と支援者側の問題点を提示し、現状の改善への提言を行うことを目的とする。 第1章では本研究の背景を述べ、第2章ではASDの歴史・概要・呼称について解説する。第3章の内容は以下の通りである。ASD関連の書籍には医師によるすぐれたものもあるが、現代でも医学的知見を無視して健常者の視点でのみASD者について論じた偏った記述の書籍が出版されている。そのような書籍の中から、支援職によるASD者の「表象」を山本智子(2016)『発達障害がある人のナラティヴを聴く―「あなた」の物語から学ぶ私たちのあり方―』(以下、当該文献と記す)を例に取って考察するが、ここで核となる「ナラティヴ」と支援者・被支援者間の「信頼関係」についてより深く論じるために、まずナラティヴ・アプローチの概要を示し、それから支援のとらえ方に共通点があるものとして1993年の「福祉川柳事件」を概観する。第4章においてオートエスノグラフィーの学術的な解説を行い、2014年より本稿筆者が企画・主宰し、大阪大学の教員の協力の下で開催されている「阪大自閉症スペクトラム(ASD)カフェ」(以下、当カフェと記す)で得られた参加者の発言を中心に勤労中高年ASD者のエスノグラフィー及びライフストーリー・インタビューを提示する。当カフェは主に学外の勤労中高年のASD当事者と非当事者の相互理解推進、当事者への支援につなげるために発言の公表を目的としており、ここでは当カフェの参加者の語りを通じて職場における支援の不足の現状や生活上の問題点等を明らかにする。第5章は総括とし、上記の論考を踏まえて他の文献に見られる同様の表象の問題及び支援職への教育・研修の必要性などを指摘する。 第3章で論じるナラティヴ・アプローチについては以下の通りである。コミュニケーション障害や定型発達者とは異なる視点を有するがゆえに30年、40年と疎外感を味わってきた中高年ASD者がどのように語ろうとも、現実を支配する定型発達の文化は結局「異文化」であり、理解不能で不便なまま確固として存在し続ける。従って、特に鬱などの二次障害を発症してしまっている中高年ASD者の困難を軽減するのは主にASD者の「外」の出来事である異文化の変容であり、その変容に必要なのは定型発達者側の気づきと適切な配慮である。さらに、社会に出てしまうと信頼に足る支援者を得ることも容易ではなく、そもそも支援者との間でさえコミュニケーション上の齟齬が生じ得るASD者に対して言葉のやり取りが主体であるナラティヴ・セラピーやナラティヴ・アプローチを適用することは難しいという問題もある。 次に、不均衡な権力関係の存するところに信頼関係は成り立ち得ないという「支援」のある意味本質とも言える部分が表れている福祉川柳事件について考察する。この事件を見る限り、福祉支援においては支援を受ける人間は支援活動の中心に置かれておらず、被支援者に聞かせる必要のない本音を印刷媒体で公表してしまう点において社会的弱者も自分達と同じ人間であるという認識が支援職には欠けている。権力ある側が己れの権力を自覚せず、社会的弱者の気持ちを想像する能力もないところにまともな福祉や支援が成り立つはずもない。支援職は自分達の方に決定的な権限があることを常に念頭に置くべきである。 当該文献について、オリエンタリズムという主に英仏のイスラムに対する大規模で根深い帝国主義への批判と、近年になって顕現した成人のASDという軽微に見える障害に対する一部の支援職の偽善とを比較しなぞらえることは無謀ではあろうが、より広範囲に行われるべきASD啓発のために次の点について論じる必要があると考える。すなわち、「身代わりの話し手となって」(サイード 1978/1993:27)自分の接した発達障害者が「どんなふうに」「典型的に」発達障害であるのかを「読者に物語ることができた」、つまり支援者としての権力だけでなく、発達障害に関する物語を公表・出版できるという優位性をも備えた支援職がそれらを自覚せず、いかに自己欺瞞に陥り、綺麗事を並べながら発達障害者を貶めていくかについてである。当該文献に登場するその著者も他の支援職達も、まるで支援職を困らせる「性格の悪い」、「難しい」(山本 2016:74)発達障害者を含む障害者達の存在によって「みずからの力とアイデンティティーとを獲得」し、あるいはそれを公表することによって自らをより安全で優位な立場に置くように見える。これは「文化を語る権利は誰にあるのか」ならぬ「発達障害を語る権利は誰にあるのか」、また、「ある集団に帰属しない外部の人間に、その集団について語る権利はあるのだろうか」(太田 2001:28)という問題にも通ずる。支援のあり方、表象のあり方の二つの大きな問題がここには存在する。 この表象の問題を受けて第4章でオートエスノグラフィーを扱う。Deborah E. Reed-Danahay(1997)はカルチュラル・スタディーズに関わる表象の問題と自己再帰性の問題に応えることを目指し、オートエスノグラフィーは社会的コンテクスト内に自己を置くセルフナラティヴであり、その書き手は二つの文化の境界を行き来して二重のアイデンティティを持つと定義する。ASDの場合も常に定型発達者の文化が背景にあるため、表象の問題に加えて当事者が二つの文化にまたがって存在するという共通点があると言える。本研究では第3章から筆者自身による「ASD者のオートエスノグラフィー」が試みられている。 一方、人類学においてはこれまで観察される対象であった当事者が「自ら代弁=表象し始めた」状況からさらに一歩進むと、では当事者が語りさえすればよいのか、という問題に行き着く。また、当事者が研究者である場合に、結局外部の人間が代わって表象するのと同様の誤りが起こり得るという問題、そして第三に当事者の「語りを聞くに値するものとして位置づける」のは研究者側であり、なおかつその研究者側の権力が隠蔽されるという問題もある(前掲:45-46,195-196)。ASDの表象についてはこれら三つの問題すべてが含まれ、第三の問題は、支援職側の権力を隠蔽しながら発達障害者側が批判されるようにナラティヴを操作した第3章の当該文献に当てはまる。残るは第一の問題と第二の問題である。 発達障害は特に個々によって障害特性の表れ方が様々である。たとえば筆者や当カフェの参加者は聴覚過敏やカクテルパーティー効果の不能が特性としてあるが、そのような障害特性を持たない当事者が主催する他の発達障害関連のカフェでは健常者のワークショップなどと同じ形式が取られており、聴覚過敏への配慮はない。まして、メディアに登場する非常に重篤な身体機能不全の症状を有するASD者などは、健常者とは勿論、我々とも顕著に異なっており、公に「異文化」として論じられるのはこのような一部の重篤なASD者である。重度であれば自伝や体験談として出版され医師の啓発本にも載せられて「障害」ということで理解され得るのに、障害程度が比較的軽いように見える身近なASD者ならば健常者と同じ地平に並べて健常者の視点で批判されるという問題もある。このようにメディアの「表象」も偏っていることから、支援職だけでなくASD者の配偶者やパートナーなど本を出版できる立場の者が昔の人類学者のような手前勝手な「表象」をすること、一般の人々もメディアが演出する重篤者の「表象」のみによってASDについて理解した気になることなどは避けられねばならない。第4章の最後に、当カフェの参加者である勤労中高年ASD者のAさん(50代男性)のエスノグラフィーとCさん(40代女性)のライフストーリー・インタビューを例示する。身近なASD者の具体的な悩みが理解されるはずである。 第5章は、第3章、第4章を踏まえた総括とする。医師の体験記にその医師自身の失敗や反省を伴う回想がよく見られるのに対し、発達障害に関わる文献は、支援職の失敗談ではなく、発達障害者が悪者あるいはせいぜい不可解であるというストーリーになってしまうのはなぜなのだろうか。脳の障害に関わる問題を扱うのに障害者を悪しざまに罵る文献が何種類も出版されている我が国の現状は異常であり、無名の発達障害者が貶められる図式はまるでオリエンタリズムそのものである。このような事態を防ぐためには、前述の第一、第二の問題があっても、現在のところ語るべきはまず当事者であって、発達障害者を悪役に仕立てる支援者や身内ではない。表象する者としてのASD当事者はオリエンタリズム的陥穽に足を取られるというよりは、いまだ語り始める必要に迫られている段階にあり、その特性の多様さから群れもせずばらばらに、独自に個々の特性について語るしかないのではないか。また、支援職に対しても、障害者に関わる職に就くためには医学的知識や倫理を含む厳しい資格試験、認定試験を設定してハードルを高くすべきであり、定期的な研修と更新に係る試験も必要である。特に知的障害者などの従来の支援に関わった者の方が先入観に毒されていることは第3章で論じている。若者の教育とともに、経験者の学び直し、育て直しが制度上必須でなければならない。それでも支援職の質の向上が一朝一夕には期待できない以上、まず身近にASD者がいる一人一人の人間に、誰の表象を信じるべきであるのか、誰の立場に立つことが「支援」の第一歩なのか、今一度考えてもらいたいと 切に思う。 太田好信(2001)『民族誌的近代への介入 文化を語る権利は誰にあるのか』人文書院エドワード・W・サイード(1978)今沢紀子訳 板垣雄三、杉田英明監修(1993)『オリエンタリズム 上』平凡社Reed-Danahay, Deborah E. (1997). (Ed.) Auto / Ethnography : Rewriting the Self and the Social. Oxford:BERG.
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